第1章未来への「希望」と 現実への「失望」の狭間で
―2030年
立っているだけでどっと汗が吹き出す。遠くでは太陽の日差しを浴びて銀色に輝くコンテナが、蜃気楼の向こうで揺らいでいる。
松田はARグラスを外すと額の雫を拭った。彼女が今居るのは、パキスタンの砂漠地帯だ。国際的企業が先月竣工した人工肉培養工場にサービス導入するため、一昨日から滞在している。
「…というわけなのですが、松田さん、こんな感じでよろしいでしょうか?」
クライアント企業の担当者が、自動翻訳機能付きマイクを通じて日本語で松田のイヤホンに直接話しかける。国籍は不明だが、彼とのコミュニケーションにこれまで困ったことはなかった。
「はい、問題ありません。いただいた他工場のデータを基に、Mr.Gembaが特定した生産性課題について私達のチームがカイゼンに入らせてもらいます。同様のケースは、日本で3例、海外でも1例対応したことがあるので、2ヶ月ほどご一緒させていただければ、結果が出ると思います」
入社してから10年。松田は最初、カスタマーサクセスに配属され、その後マネージャーや責任者を務めてきた。今では社内外においてカミナシのカスタマーサクセスは、「プロジェクトX」と呼ばれている。
自分たちは単なるカスタマーサポートではない。現場で働く管理者とともに一丸となって大きなプロジェクトを成功させる伴走者であり、一番の強力な武器であるという自負がある。共に働く社員たちも『現場ドリブン』という社のモットーを一番に大切にしてきた。
その甲斐あってか、どの現場でも共通してクライアントから言われるのが「自分の仕事人生で一番の成果です」という言葉だった。
「たまに信じられないんですよね。神田のボロビルでやっていた自分たちが、世界的に有名なあのAmazoneに頼られる日がくるなんて。未だに起きたら夢だった、というオチがあるんじゃないかと思います」
隣に立っていたエンジニアの井岡が、砂漠に立ち並ぶ工場群を眺めながらしみじみと言った。
まったくその通りだった。あらゆるものがアナログで、新しいことをやろうとすると反対が入る。そんな昔の現場の実態を見てきた松田からすると、国際的企業から認められ、断らなければいけないほど多くの案件を受注している現在のカミナシの姿には、井岡と同様、感慨もひとしおだった。
カミナシがここまでの躍進を遂げることになった発端。それは8年前、ある一件の相談をカミナシのCEOである諸岡が受けた事だった……。
諸岡がフーズ・サプライの野口から相談を受けたのは2022年に入ってすぐのことだった。諸岡は当時入社したばかりの松田に話を振った。この案件は、大きくなる予感がした。
「フーズ・サプライって…コンビニに並んでるアレ作ってるところですか??え、めちゃくちゃすごいですね!」
3年ほど別のベンチャー企業で経験を積み、カミナシに転職してきたばかりの松田はさっそくの大型案件に目を輝かせた。
「二人とも、喜ぶのはまだ早いですよ。こないだ関西まで行って、30分で商談終わって玉砕したじゃないですか」
別の社員から横槍が入る。諸岡は笑いながら
「いやいや。今度こそは何が起こるか分からないし、もしかしたら導入前提で考えてくれているかもしれないしね!」
と言ったが、社員がそういうのも無理はなかった。実際にサービスをリリースしてみるとまったく売れない。売れないどころか、問い合わせすらない。
やればやるほど、本当にこんなことしていて未来があるのかと、不安になってきていた。起業してからすでに2年が経過していた。そろそろ結果を出さないとヤバい。そう思っていた。
――
「はじめまして、カミナシの諸岡と言います!野口さんとお約束があり、お伺いしました」
諸岡と松田がフーズ・サプライの工場を訪ねると、食堂に案内された。東京のオフィスとは違い、ディスプレイモニターがない工場ではパワーポイントを使ったプレゼンなどは出来ないため、必ず紙の資料を持参している。
名刺と資料を用意して待っていると、野口らしき人が小走りで駆け寄ってきた。小柄な体躯を工場の制服に包んでいる。最初にもらったメールの文面からは現場の生産性を高めたいという意気込みが伝わってきたが、実際に会ってみると、文面から受けたほどの覇気は感じられず、何かに思い悩んでいる様子だった。
「野口です。よろしくお願いします。まずは、このような場所でお話を聞くことご容赦ください。まだ社内でオープンにしていないので。心苦しいのですが」
「いえ!僕らのような、無名の会社にお声がけいただいただけでもありがたいです。本当に今日は貴重なお時間をいただきありがとうございます」
「そう言ってもらえると助かります。社長さんなんですよね?フットワークが本当に軽いですね。ご自身が現場でやられていたということを拝見して、僕らに何が必要なのか、アドバイスをいただきたいと思って連絡した次第です」
諸岡は深く頷いた。
「自分も実際に経験したので思うんですが、現場の仕事って本当に大変ですよね。あれだけ大変なのに、どれだけ頑張っても褒められない。社会のインフラだと言われても、称賛されることもない仕事ばかりで…」
「え…?」
野口は意外そうな顔で諸岡を見つめた。空気が変わる。
「どうかしましたか?」
「いえ…自分が昔思っていたことと同じことをおっしゃっていたので。驚きました」
「すいません、気を悪くされたのかと思いました」
「いえ、そうじゃないんです」
野口はぽつりぽつりと、自らの思いを話し始めた。
――
野口が目をかけていた新卒社員の中尾が、入社たった1年で退職したのはつい最近の事だ。
入社当時、目を輝かせて「アナログな工場の仕事をITで変えたい」と語る中尾を、野口はかつて新入社員だった頃の自分と重ね合わせ、期待していた。
「海外企業と戦っていくために、ITを使った“現場カイゼン”は重要だと思っています。最近では現場のデジタル化に取り組むスタートアップ…あ、最近ではベンチャーをそう呼ぶんですが、そういう会社は海外にもたくさんありますし、日本でも生まれつつあるんですよ」
「中尾くんは、なんでそういう会社に入らなかったの?そっちの方が楽しそうだし」
「いや!僕はITの専門スキルもないですし、逆に、現場側にいることで出来ることも多いんじゃないかなと思ったんですよね。同期に話しても、まだポカーンとしてますが、少しずつ盛り上げていきます。野口さんも、一緒にやりましょうよ!」
野口自身、これまで現場の仕事については数えきれないほどカイゼンできる部分があると考えていた。
電子化によってそれらの課題が解決するのなら、この暑苦しい新人と一緒にトライしてみる価値はあるのかもしれない。自身が入社して約10年。入社当時は、ネームバリューがあり、CMで誰もが知っている食品メーカーに入社した事を誇りに思っていた。しかし、現場仕事に忙殺される中、当初抱いていた熱意はいつの間にか薄れていた。中尾の姿を見て、野口自身が触発され、自分も何かここでできるんじゃないか、という期待が胸の底に灯った。社内の若手に向けて、ITサービス導入を検討するための勉強会を開きたいという中尾に、野口は協力することにした。
しかし、そう上手くは運ばなかった。当日集まったのはたったの数人。中尾はめげずにいくつかの効率化ツールやサービスを紹介したものの、「スマートフォンを持っているのは営業の人間だけで、現場にはない」「デバイスは工場内持ち込み禁止なので、導入は難しい」「規則を変更するのは年に一度と決まっている」など、口を開けば課題や問題ばかり。そもそも、会議室の利用やパソコン、プロジェクターを借りるためにはかなり前から総務に事前に申請しなければならないという時代錯誤ぶりだ。そんな環境の中、中尾の提案に乗る者が少ないのも無理はなかった。
結局、消極的な意見しか出ないまま勉強会は終わった。落ち込む中尾に野口は「現場を変えるには時間が必要だ。めげずに頑張れ」と声をかけたが、自分から動くことはなかった。
それからしばらく経ったある日、野口は喫煙所で中尾の同期たちが噂話をしているのを耳にした。どうやら、彼は現場のIT化について工場長に直談判しに行ったらしい。「暑苦しい」「現実が見えていない」「どうせ上からNGがくる」といった断片的なワードが聞き取れた。彼が孤立しつつあるという噂話は、どうやら本当らしかった。
それから2ヶ月後、中尾は退職した。退職の直前、野口は中尾から1通のメールを受け取った。そこには感謝の言葉とともに、心臓を鷲掴みにされるような言葉が書かれていた。
『これまで相談に乗っていただき、ありがとうございました。工場の中でお話した中では、野口さんが一番理想を共有できる相手でした。今の状況が最高ではない、よりよい現場にするために出来ることが多い、ということに野口さんは気づいていると思います。
でも、一切行動を起こしていません。
僕は、呼びかけに否定的だった人たち以上に、野口さんに対して失望しています。今回自分は退職という結果になりましたが、野口さんには願わくば、会社の中から働き方を変えられるような、そんな未来を作ってもらいたいと思っています』
目に飛び込んできた“失望”の二文字。
何も知らない新入社員なんかに分かってたまるか、という怒りが湧き上がる一方、事なかれ主義を貫き、傷つくことを恐れていた自分の矮小さをまざまざと見せつけられたような気がして、野口は肩を震わせたまま、メールを返す事もできなかったという。