第3章現場の人々が持つ力を、 デジタルで解放するために
それからの月日は、あっという間だった。松田は諸岡と井岡と共に「現場の仕事をエキサイティングでやりがいのあるものに変える」べく、必死でMr.Gembaの開発に取り組んだ。
当時、松田は構想を聞いた時に難しすぎると思ったし、エンジニアチーム内でも、もっと地道に目の前の開発をしていったほうがいいのでは?という意見が大半だった。そんな時、エンジニアの井岡だけが瞳を輝かせていた。彼はミーティングでこんなことを言った。
「でも、それを実現すれば、現場で働く人達の働き方が一気に良い方向に変わりますよね。今の10倍喜んでもらえるなら、どんなチャレンジでもβ版マインドでやってみたいです」
この一言が転機だった。以前から、『顧客が喜ぶなら、平然と崖から飛び降りる男』と言われてきたが、その意味が松田にはやっと理解できた。
今日に至るまで苦労の連続だったが、カミナシはついにパーソナルアシスタントを完成させた。現場の単調な作業は次々に自動化され、デジタル化が進んでいった。
すると、面白いことが起き始めた。カミナシがあらゆる現場の紙をデジタル化した結果、これまで紙の中に埋もれていた膨大な現場情報がデータに変わっていった。日々のオペレーション結果から、業界ごとのミスや課題の傾向、カイゼンの打ち手、その結果や効果など…貴重なデータが蓄積されていった。松田は、こうした現場のケーススタディを解析し、業界別に最善のソリューションを構築した。今ではこのコンサルティング提案を目当てに、カミナシの利用申込みをしてくる企業が跡を絶たない。カミナシの現場カイゼンのプロフェッショナルサービスは、世界的なコンサルティングファームにも引けを取らないほどの評価を得ている。
もちろん、ノンデスクワーカーの働き方も大きな進化を遂げた。これまで口頭や紙で伝えていたことも、Mr.Gembaに依頼すれば一瞬だ。翌日からすべてが動き出し、現場スタッフのスマートグラスに指示が飛ぶ。結果も翌日にはデータ化されて見ることができる。成果が出なければ、何かを変えて、また試す。
これまでIT業界では当たり前だった「アイデアの具現化」と「結果を瞬時に把握する」ための武器。それを、現場に持ち込み、誰もが使えるようにした。それにより、カミナシを導入した現場は目に見えて生気に溢れ、一人ひとりが自立したプロフェッショナルとして仕事にコミットし始めた。
「現場で働く人々が持っている創造性を、デジタルの力でオペレーションに即座に反映でき、その結果がタイムリーに分かる状態」
――これこそが、諸岡の考える「エキサイティングで、やりがいのある仕事」の姿だった。
PDCAサイクルを回す速度は100倍から1000倍になり、いつしかカミナシの顧客成功の定義は『現場でプロジェクトXを成功させること』になっていった。
こうして、カミナシは2027年にパーソナルアシスタントMr.Gembaを発表した。ユニコーンと呼ばれる評価額で上場していたカミナシの株価は、さらに跳ね上がった。2030年には1兆円の時価総額を目指すという中期経営計画も、この頃では誰も笑わなくなっていた。
「IT業界と同じくらい先進的な働き方を、現場でも実現したい!」
数年前、そんなことを諸岡をはじめカミナシの経営陣が語っていたが、当時はまだ絵空事だった。しかし、そのビジョンを信じてくれたVCから大型の資金調達をしたり、未来を信じて導入を決めてくれた顧客のおかげで少しずつ現実にしていった。海外の国際的企業から依頼が舞い込んだ時は、世界で勝負できる!と会社中が沸き立ち、翌日はお祭り騒ぎとなった。自分たちは日本の誰もがこれまで成し遂げてこなかったことを成し遂げたんだな、という嬉しさでいっぱいになった。
一つひとつの現場は小さい。でも、私たちはそこに、誰よりも大きな革新と喜びをもたらしている。妄想が現実を追い越したのだ。
――
「大変だったけど、ここまであっという間でしたよね」
井岡にそう言われて、松田ははっと我に返った。隣で井岡が汗を拭いながら、ぬるいビールを啜っている。もう何年も昔のことを、工場から数キロ離れたレストランで昼食がてら休憩しながら、松田は思い返していた。
「あの頃は暗中模索でした。諸岡さんにパーソナルアシスタントって何ですか?って聞いたら、『現場の管理者がやりたくない仕事を全部やってくれる何か!』って答えが返ってきて、何かってなんだよ…と思いましたよね」
本当だね、と松田が相槌を打つと、井岡は続けた。
「でも、現場にはよく行ってたので、やりたくない仕事っていうのが何なのか、イメージは湧きましたよ。大変でしたけど、開発して、初めて導入してくれた企業さんが目をまん丸くして、『スゴイ!』と褒めてくれたときは人生で一番嬉しかったですね」
日常生活の中でも、Mr.Gembaが使われている場面に遭遇することがここ数年で急激に増えた。
飛行機に乗れば、飛行場で整備士たちが使っている。JRの駅舎では駅員がMr.Gembaを手にしている。それを目にするたび、ああ、本当に、現場で働く人たちから求められていたサービスを作ったんだ、という感慨が、松田の胸にしみじみと湧いてきた。
「けど、これからどうするんでしょうかね?」
井岡の言葉に、松田は再び我に返る。
「どうするって、何のこと?」
「諸岡さん、カミナシにとっての今後10年を担う新しい武器が見えてきた、ってこの前言ってましたよ。きっと、社会の新しい動きを見据えた上で、何か企んでいるはずです」
「きっと、また突拍子もないこと言い出すんだろうね。私たちも当然、それに付き合わされる、と」
「突拍子もない未来をこの手で切り拓いて行けるってのも、最高の仕事人生じゃないっすかね、松田さん」
そう言って笑う井岡の顔は、出会った時と変わらない『今にも崖から飛び降りそうな』前のめりの輝きに満ちていた。